シュラッター年表

はじめに

前回の記事では本ブログの簡単な説明と簡単なプロフィールを書きました。前回の記事は死ぬほど面白くないので、今回はないセンスを絞って面白おかしくシュラッターという人物の過去を振り返っていきたいと思います。

年表

乳幼児期

関西で生まれ落ちました。母親から生まれ落ちたと記憶しています。これは本当の話ですが、母親はある夜ふと目が覚めて便意を催したためうんこをしようと思い便器に座ったところ便意ではなく産意であったことに気づき急いでぼくの父親を叩き起こし病院でぼくを産み落としたそうです。そうです、私がうんこマンです。そんなギリギリ便所を回避したシュラッターは父親、母親、一足先に生まれた兄に引き連れられ元々拠点としていた関東へと戻りました。そこでの生活はほとんど記憶していませんが、幸せな家庭に生まれたという風に聞いています。よく当たると噂の占い師から聞いたので間違いありません。とにかくよくおっぱいを飲みよく泣きよく寝る子だったそうです。こうして振り返ると今もそれほど変わっていないようです。唯一変わったのはあまりおっぱいを飲んでいないところです。そうして大きく生意気でわがままに育ったシュラッターは幼稚園のときに親の仕事の都合で渡米します。American Dreamが始まります。ちなみにこのときが人生で1番のモテ期だったため弱冠6歳にして人生の運の半分を使い尽くしました。

児童期

アメリカに渡って小学校生活が始まります。おっと失礼、Elementary School生活が始まります。小学校は現地の小学校に通うことになり、目が青い連中に囲まれピーチクパーチク訳のわからない言葉で話しかけられ、こいつら全員ラリってるのか、と心の中で新しい環境を受け入れるようにしました。そうは言っても英語という言語を身につけなくては尿意も満たせなければトランプ政権の今後についても議論できないのでぼくみたいに英語が不自由な子数人とおっぱいがとにかく大きい先生とで週に何回か英語の基礎から学ぶ取り出しクラスのようなものに入れてもらえました。通常のクラスと取り出しクラスを行き来する生活を2年くらい経た後、ぱいぱいでかみ先生とはお別れし、Americanの子どもたちとなんら変わらない境遇で学校生活を送るようになりました。ホットドッグを食べたり昼休みにタッチフットをしたり、夜はサッカーの習い事に行ったりとまさにAmerican Dreamと呼べるような生活がそこにはありました。この頃から少し記憶があって、特に印象に残っているのはシャチについてのレポートを小2で書き上げたこととエジプトのミイラについてのレポートを小4で書き上げたことです。シャチとミイラに関してぼくの右に出る輩はいませんのでご安心ください。

少年期

小学校高学年に入り自分が少年だな、と自覚し始めた頃が少年期です。ませるのが早いアメリカ人はこの頃から付き合ったりチューしたりデートをしたりします。そんな楽しいアメリカ生活を前にぼくはというとひたすらサッカーボールを蹴り木刀を振り回していました。よくわからない武道みたいな何かにハマりサッカーとよくわからない刀を振り回す武道漬けの毎日でした。この頃からなんとなく自分は運動神経も頭もいい方なのかなと自分のことをまわりと比べて評価するようになり始めました。思い上がっているなこの小僧と思うかもしれませんが、今でも思い上がっているのでなかなか人格を変えるのは難しいなと感じている次第でございます。

思春期

そんなシュラッター少年が大人の階段を上ったのは小5のときです。好きな子ができたというやつです。正確にはずっと思いを寄せていたけど話す機会がほとんどなく、好きという思いにまでは成長していなかった思いが開花したという感じです。接近のきっかけは好きなEmmaちゃんがぼくと同じサッカー組織の女子チームに入り、練習場所や試合場所でよく会うようになったことです。Emmaちゃんと会うのはサッカーのみならずハロウィンなど季節のイベントから普段の遊びにまで及ぶようになり、両思い的な可愛い展開になりました。あとはもうぼくが告白するだけだ、というタイミングで悲劇が起こります。祖父が逝きます。これにより家族はアメリカの小学校を卒業する3ヶ月前の春先に緊急帰国を決行することとなり、自分の思いを伝えられないまま日本に本帰国することになりました。こんなタイミングで逝くなよ、おじいちゃん…。そんな甘酸っぱい思いを経験したシュラッター少年はこうして毎年春を迎えると小5の春を思い出すようになりました。思春期ってやつです。小6の頭から日本の小学校に転入したぼくは正直日本の小学校に馴染むのに苦労しました。チームといったつもりティームと言っていたり、スポーツチームのユニフォームを学校に着て行くとゼッケンと呼ばれたり、とにかくカルチャーショックが大きかったです。魚類で例えるならばクロマグロ並みに大きかったです。必死に日本文化に溶け込みながら帰国子女受験とかいうライフハックがあると知ったぼくは中学受験をすることに決めます。とはいえ、思春期の小6などができる勉強はたかが知れているので、適当に勉強をして家から近くてうまくやっていけそうな新設校1校だけを受験し、そこに入学を決めました。サッカー一面取れない学校に入学していたことが落とし穴となり、サッカー部への入部を断念し、コート1面をギリギリ取れるバスケ部に入部しました。中学校では運動神経が良かったり英語が話せたりバカなことをやったりしていた影響でボス猿のような中学生になってしまったと思います。学年の人数も少なかったこともあり、学年ではそこそこ目立つ存在になっていたと思います。もしこれが勘違いだったら切腹しますので中学の知り合いはお声がけください。そんなこともあり、とにかく尖り続けようと、牙を磨いていたのが思春期でした。親にも友人にも背伸びをして見せ、あたかも自分が中心に世界が回っているかのように振舞っていたと思います。いわゆるクソガキってやつですね。そんなぼくはあるとき親を言葉で傷つけてしまったことから、自分はもうガキのままでいてはいけないほど大きくなったのだなと自覚しました。この瞬間のことをぼくは「ガキの使いやあらへんで」と読んでいます。

青年期

中学校3年生になり中学校最高学年としていい気になっていると、義務教育の終わりだという変なむずむず感に追われる生活が始まります。今後ぼくはどういう大人になっていくんだろう、とぼんやり考え始めたのがこの頃で、春ばかりに思いを巡らせている場合ではなくなりました。青年期を迎えます。ちなみに変な意味ではございません。中高一貫だったため、難なくそのまま高校に進学することはできました。一方で都内の小さな私立だったため、ここでいい気になっていてはまずい、という漠然とした不安と向き合うようになりました。それからというものの授業では寝ないようになり、バスケ部の部長も務めるほか、生徒会長にも立候補し学校の顔となるような高校生活を送りました。と、言いたいところですが模範的な優等生とは言えず、外面だけぴっかぴかにした内側がボロボロの高校生でした。TikTokでメイクしてめちゃめちゃ変わる、みたいなやつです。具体的にどんなことをしていたかはあまり公表できませんが、少なくとも学校の教員の半数以上は敵対勢力でした。しかし新設校でまだ合格実績が少なかった我が母校は成績優秀な生徒には少し甘い傾向があり、運良くぼくもその生徒のうちの1人でした。おかげさまで裏で教員に陰口を言われながらも都内の国立難関校に現役で合格し、敵対勢力の教員たちとは冷戦のまま終戦を迎えることができました。もし不合格だったらどうやらぼくの肩を持ってくれていた教員の数人は辞職するつもりだったそうです。ここで人生の残りの半分の運を使い果たします。そんなシュラッターは大学入学し、絶望を味わいます。それは勉強でもスポーツでも面白さでも敵わないやつしか周りにいないということです。完全に自尊心が打ち砕かれ李徴となったぼくはよくわからないまま大学生活をぼんやりと過ごし、友人たちに依存するように仲良くしていた大学の友人たちとしょっちゅう顔を合わせていました。サークルにも入ったものの、ここが自分の居場所じゃないなとなんとなく感じ自然と距離を置くようになり最終的には幽霊部員となりました。ぼんやりと過ごす大学生活にも楽しい思い出は実はあり、八丈島での野宿生活や九州縦断ヒッチハイク旅やおしゃれなカフェバイトなど自分なりに楽しい大学生活を送っていました。ただ大きな誤算が1つあり、自尊心やらチェホンマンやらよりもモテないということにとてつもなく大きなショックを感じました。どれくらいそのショックが大きかったかを商業施設で例えるとCOSTCOかメガドンキくらいです。多分高学歴とされている大学に入学し、服装も顔も最低限は切っていないと自負していたぼくはなんだかんだでモテるのでは?と甘い目論見がありました。しかしいざ蓋を開けてみるとまぁモテない。あらやだ奥さん、そんなにモテなくていいのかしら?ってくらいモテません。そうこうしているうちにモテたい願望は消失し、トチ狂ったぼくは大学2年生で一旦ベンチャー企業の社会人のお話を聞きに行くことにします。理由はただひとつで、ベンチャーっていう横文字がかっこよかったからです。そこで社会人の方となごやかにおしゃべりしてあぁ楽しかった、と思いお別れの雰囲気が漂っていたときに社会人さんが「じゃあ、来週から働きに来れるかな?」「は?」と思いながらも人間とは弱いもので「水曜日からお願いいたします!」と元気にお願いいたしていたのです。なんだかよくわからないままインターン生として会社のウェブマーケティング部に配属されたぼくはそれなりに必死に学んで働きました。朝から夕方まではマーケッターとして、夜からはおしゃれなカフェのバリスタお兄さんとして働きました。お勉強はというと必要最低限しかしておらず今はもっと勉強しておけばよかったと後悔はしているもののどうせその頃に戻っても勉強しないんだろうなと思うのでもう無理です。なんならおっぱい飲んでいた頃に戻りたいです。そんなこんなでインターンも終止符をうち自分でサイトを立ち上げてみたり、大学のサークルではなく学生団体のようなものに入り直してみたりしながら現在も学生生活を送っている次第です。