初老のおばあちゃんと工事現場のおっちゃんから学ぶ思いやりの話

はじめに

皆さんは電車で席を譲った経験はありますか?あるいは譲られた経験もあるかもしれません。ぼくはまだピッチピチの若者なので席を譲る側になることが多いです。席を譲るとなんか気持ちいいですよね。「この人はこの席を必要としているよなぁ」って。席を譲ったあとは何気なく清々しい表情になりますね。ぼくレベルになるともはや席を譲りたくて仕方ないからあえて満員電車の優先席のドアに1番近い席に陣取ってすぐに席を譲れるように構えたりなんかします。なんなら席を譲るために電車に乗ります。別にどこか行く予定もないのに。おふざけはさておき、席を譲る行為といった思いやりの気持ちって気持ちいい行動のはずなのになんか歯がゆさを感じたり違和感に悩まされる場面ってありませんか?まわりから注目される恥ずかしさだったり好意で席を譲っているのに不満そうな顔で断られたり、逆に譲られるのが当たり前のように王様気取りで座る人もいますよね。そんな日常を目にする機会が増える中、「あぁ、思いやりってこういうことだよな」と感じたシーンを見かけたので忘れないうちに記しておこうと思います。

席を譲れなくなった日本人

先述の通り、昨今日本では席の譲り合いの場面にうまく言い表せない気まずさ、歯がゆさみたいなものがあるように感じます。これは都会に住んでいるからでしょうか、やはり合理的かつ閉鎖的な人が多いような気がします。例えば満員電車でラッキーなことに優先席に座れた中年のサラリーマンがいるとします。席に着くや否やスマホゲームに夢中になります。お勤めご苦労様です、席に座って現実から逃避できる貴重な時間ですね。ところが次の駅でよぼよぼのおじいちゃんがぎゅうぎゅうの満員電車に乗り込んでくるとどうでしょうか。このおじいちゃんを一瞥したサラリーマンはすぐさまスマホをカバンにしまい、居眠りを始めるではありませんか。さすがにそれはないぜ、と心の中で呟いていそうなその隣に座っていた若い女性も何も目にしていないような素振りでアイラインを引いていきます。この酷い有様は他人事ではありません。実際私もおじいちゃん側の立場になったことがあるからこの状況がいかにやばいかが身にしみてわかります。別に一時的に年をめちゃめちゃとった訳ではありません。中高生のときに脚を骨折し松葉杖をついて歩いていたときのことです。骨折をしているため通勤ラッシュに当たらないよう避けるつもりでもなかなか完全にずらすことはできず、そこそこの満員電車に乗ったある日、ぼくは衝撃を受けました。それは車両の人々から視線を感じるも、誰一人として席を譲ろうとしないことです。これは1度だけではありません。むしろ1度だけ席を譲られたことがありましたが、そのときは車両で最もパイセンなのでは?と思えるくらい年を召していた死にかけのおばあさまから席を譲られた時だけです。さすがにそのときは遠慮しましたが。別に席を譲ってくれと言いたい訳ではありません。少し譲って欲しかったのは事実ですが、何が言いたいかというと、最近みんな、自分がわざわざ責任感を感じて席譲らなくても良くね?って思ってね?ってことです。もしこれが勝手な思い過ごしだとしたら申し訳ないのですが、渋谷ハロウィンでの荒れ具合といいネットでの無責任な誹謗中傷といい、最近みんな大衆の陰に隠れて良心に背く行為を平気でしてしまう傾向にありませんか?と思うことがあったりします。一言でまとめると思いやりの気持ちが社会全体で薄れていませんか?ということです。一言ではまとまらなかったですごめんなさい。

思いやりのロールモデル

そんなことをぼんやりと考えていたときにまさにこれが思いやりだよね!という光景を見かけます。それはぼくがある夕方電車に揺られていた時でした。帰宅ラッシュの始まりということでちょうど座れないくらいの混雑で、幸いにもぼくはいい感じの席に座ることができ、座席のありがたみに浸っているところでした。真ん前には工事現場のおっちゃんと思しき、いかついルックスのマイメンがどっしりとした構えで座っていました。この歳になってまで帽子を斜め被りするのか、メンズノンノでも読んで欲しいな、と思いつつもぼくは完全に座席でリラックスモードに入っていました。2駅くらい先の駅で電車が停車すると初老くらいの可愛らしいおばあちゃんが乗ってきます。おばあちゃんは乗ってすぐのポールにしがみつき、ドアの方を向いてちょこんと立っていました。しっかりとした足つきでしたが、少し背中が曲がっていて、向かい側の席から見ていたぼくは席を立とうかなぁと思っていたその瞬間でした。斜め被りマイメンが気だるそうな表情で「ばあちゃん座るか?」とそのおばあちゃんに声をかけるのです。それに対しおばあちゃんは「すぐ降りるから大丈夫よ、ありがとね」と即座にアンサーを返します。クリティカルを食らったマイメンは再びどしっと腰をおろしヒップなホップに聞き入るのでした。この光景を見たぼくはあまりにも心が動かされ、その場で2人のラッパーをただただ眺めることしかできませんでした。一見どうでもいいサイファーにしか見えないかもしれませんが、このワンシーンが思いやりをそのまま体現しているのではないでしょうか?マイメンは瞬間的に声をかけたことから悩んだ末の偽善心からくる行為でないことも分かる上、言葉遣いも距離を感じさせるような敬語を使わず、シンプルなおばあちゃんへの思いやりの気持ちから席を立とうと声をかけます。それに対しポールしがみつきおばあちゃんは自分の健康もさながら、1駅、2駅であればわざわざ席を譲ってもらうほど大したことないことを伝えるとともにありがとうとその配慮の気持ちへ感謝の言葉を贈ります。冒頭でも申し上げた通り、なんかこういうのっていいですよね。こういう日常の瞬間に温かみや人間同士の営みを感じます。誤解を招く前に断っておくとこのマイメンとおばあちゃんが営んだわけではないですよ。多分。

思いやり、もう一度

結局何が言いたかったかもうあまり覚えていませんが、少なくともぼくはこの一連の様子を見てとても感動しました。24時間テレビとかとは比べ物にならないくらい。ささやかな日常にこそ心が動く瞬間というのが秘められているということがよーくわかりました。とにかく、こうしたきらりと光る日常の光景をもっともっと増やしたいです。それをして社会がより良くなる、とか経済がより発展するとかではないかもしれませんが、なんかいいなって思える人や時間が増えることって悪いことではないですよね?ポンコツそうなサラリーマンが赤ちゃんに手を振ってその赤ちゃんもまた手を振り返す瞬間とか。定期入れを落とした若い女性にパッと拾って駆け寄って渡しに行く高校生の集団とか。駅の看板を見ながらくるくる回っている外国人家族に助けの手を差し伸べるメガネの似合うニット帽を被ったお兄さんとか。なんかいいなって思える人が世の中に数人でも増えればそれだけで少しいい世の中になったと言えるんじゃないかなと思うんです。そこには大衆の陰に隠れてコソコソと悪事を働くのではなく、ほんの少しの思いやりを一人ひとりが取り戻すちょっとした気持ちが必要な気がします。インスタグラムで2年記念日、これからもずっとよろしく♡ってストーリーに投稿する女子大生、なんかいいなぁって…。