赤信号だからといって横断歩道を渡らない人は思考力が低下している

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はじめに

赤信号なのに颯爽と横断報道を渡り歩いて行く人ってたまにいますよね。みんなが赤信号で止まっている中まわりの目も気にせず横断歩道を渡る人、きっと見かけたことあるのではないでしょうか?こんなことを言っておいて実はぼくもそういう人種の一員です。みんなが信号に変わるのを今か今かと待ち望んでいる横をするする通り抜けて道を渡ります。なんでそんなことをする、規律を乱しているじゃないか。そう憤りを感じる方もきっとおられることと思います。ぼくだって信号を無視して横断歩道を渡ることは決して褒められることではないと思いますし、ルールに反したことをすることがちょい悪でかっこいいとは1ミリも思いません。あ、1ミリは思うかもしれません。それでもやっぱり赤色に光るLEDライトをぼけっと見つめて青く点灯するのをバカみたいに待つのはぼくにはできません。普段何も考えていないぼくですが、それ以上に赤信号だから渡らないという持論を振りかざす人はきっとさらに考えていないのかなと感じたためそのことについて今回はつらつらと綴らせていただきます。

信号機は社会を効率化するツール

信号ってそもそもなんでできたのでしょう?路面電車や自動車が普及して交通事故の危険性が生じる世の中になったから信号機が生まれたんじゃないかと思い、一応色々調べてみました。中でも警察庁のサイトに読みものとして面白いページがあったので、こんなどうでもいい記事を読んでいないで、すぐさまこちらのページを読んで教養を深めてもらえればよろしいかと思います。
(参考)交通信号の創始期 信号機の歴史 警察の歴史(警察庁)
さて、リンクを飛ばして続きを読んでくださっている物好きなあなたには最後まで付き合ってもらうとします。簡単に信号機の起源をご紹介すると、自動車や電車ではなく、馬車が使われるようになってから交通事故が起こるようになり、警察官らが手信号で交通整理をしていたとのことです。予想とは少しずれてしまいましたが、交通事故を防止するため、という部分は合っていたみたいですね。つまりこう言い換えることができます。信号がないと交通事故や交通渋滞という社会非効率が生まれてしまったため、そんな社会の効率化をはかるツールとして信号機が生まれたと言えます。そうです。信号はあくまでも交通事故を未然に防いだり交通渋滞を緩和するための道具に過ぎないのです。ここから導けるのは赤だから止まる、青だから進むというという理論は完全に信号の機能を無視してなんでその信号があるのかという本質を捉えていないということです。結局危なかったら信号が青でも止まるように、危険性がまったくなければ赤信号であっても道路を渡ることで一人の生活者としても目的を達成できますし、社会の効率性も損なわれません。赤信号だから止まらないといけない、という短絡的かつ論理性にかけたことを唱える人はもうGood night.頭だけいいやつもうGood night.広くて浅いやつもうGood night...

信号通りに行動する規律の正しい国日本

ある日ぼくがいつものようになんでもない小さなT字路で赤渡りをしたそのとき、一緒にいた同級生にこう言われました。「規律を重んじる文化がある日本の一国民として恥ずかしくないの?」と。そのときにぼくは少しはっとさせられました。もしかして、ぼくってこの友達から見て一国の恥だと思われている?と思い、なんとなく何故そう言われたかを考えました。「罪の文化」、「恥の文化」はご存知でしょうか?アメリカの文化人類学者ベネディクト氏の『菊と刀』という著作では日本人の国民性について分析が行われました。その著作の中で、欧米人は罪の文化を持ち、日本人は恥の文化を持つと表現しています。「罪の文化」とは良心に背く行為をしてしまったら罪を背負うことになるため、良心にしたがって行動する欧米の文化のことを指します。一方の「恥の文化」は世間や他人の目に触れても恥ずかしくないように行動する日本独自の文化のことを指します。話を元に戻すとしましょう。このベネディクトさんが提唱した考えを想起したぼくはたしかに赤信号を渡ったときにほかの人たちは全員信号が変わるのを待っていたことに気付きました。その中で平然とぼくはその規律を乱すようなことをしてしまったせいでその友人は恥ずかしい!と感じたのでしょう。まさに他人の目を気にする恥の文化が綺麗に現れたシーンだと思いました。この答えに至ったときにはすでにぼくは快感に浸っており、恥じらいなどという感情は少しばかりもありませんでした。他人の目を気にする国民性と言うと聞こえは悪いですが、実はいいことだと個人的に思っています。見方を変えると規律を乱さない国民性と捉えることもできます。小学校の運動会でも背の順で体育座りをし、前ならえをした後に全員で一体感のある器械体操をします。中学、高校でも生徒は統率のとれた制服を着て登下校します。幼い頃から当たり前に団体行動がしっかりできる国というのも世界では珍しいでしょう。この国民性が日本人に備わっていなければ終戦後わずか20年足らずでオリンピックを開催することなどできなかったのではないかと思います。東日本大震災ほど大きな災害後の避難生活でも避難者たちは自分たちの分の支給品が配られるのを順番に待ち、復興に向けて国全体が一致団結しました。またまた脱線してしまったので元に戻るとします。信号が赤だからみんな止まり、信号が青だからみんなが進むという規律がここまでしっかり徹底して守られている日本は世界でも本当に稀有な国です。これはたしかに見方によっては美徳だと捉えることもできるでしょう。ぼくはそんな素晴らしい文化が根付いている日本だからこそ規律に従うだけではなく一人ひとりが自らの頭で考えて行動するべきだと思います。何かが起こればいつでも団体行動ができる、個々がばらばらに動いていたとしても緊急事態には一つにまとまる能力を備えている。そんな日本の国民性があってこそ初めて自分の考えにしたがってやりたいことを自由にできるのではないでしょうか?

考えなくて済む社会に飲まれるな

高校のときお世話になった恩師にこんな話を聞いたことがあります。ベトナムでは道路の横幅いっぱいにバイクがブンブン走っている。もちろん道路には信号機も設置されていて赤に点灯したり、はたまた青に変わったりする。道路の上でライダーや歩行者が行き交う条件は日本とまったく変わらない。ただ唯一違うのはその信号を守っている人など1人もいないということだけだ。バイクを運転する人は横を走っている運転手や前後左右を縦横無尽に走るライダーたちの間をするする走り抜ける。歩行者も歩行者で道路の対岸にたどり着くために首を横に振り続けながら少しずつ少しずつ歩を進める。止まれないバイクと止まりそうなバイクを見分けながら。そうして命がけでみんな道路を渡っていくのだ。こういうお話を高校生のときにぼくは聞きました。ここから何が言えるかというと、みんながみんなしっかりと信号の規律を守ってくれる日本に生まれて幸せだということです。命からがら道路の対岸を目指す必要のあるような生活を強いられていません。まずはその社会のありがたさを感じることです。しかし、安全・安心な社会というのは裏に我々の思考力や生活力を脅かすような危険性を孕んでいます。身体が晒される危険性と頭脳が晒される危険性というのはある意味シーソー関係にあったりします。身体が安全になればなるほど頭脳で考える必要はなく、思考力の低下といった罠に陥ります。反対に身体が危険に晒されているほど思考するプロセスが多くなり、頭脳は健康な状態に保たれます。徴兵制度などがある諸外国からみたときに平和ボケしていると揶揄される日本ではたしかに自然とボケていってしまうほどの平和な社会が先代のおかげで築かれていると思います。そのような考えずに済む社会で悠然と過ごしていていいのでしょうか?自分の頭で考えることを自ら捨ててはいないでしょうか?あれ、こんな人通りも車の通りも少ない道端でなんで自分はいつまでもあのLEDライトを見つめているんだっけ。そうやってボケていく自分にツッコミを入れることができたときが物事の本質を見る目を身につける一歩目です。その踏み出した一歩の先で立ち構える信号はさぞかし青く光っていることでしょう。うまく話がオチたところで結びとさせていただきたいところですが、高校卒業後ベトナムに行き自分の目でベトナムの交通事情を確めに行ったところ、ものすごく信号を守る人が多くて高校の恩師の言うことなど鵜呑みにせずに自分の頭で考えて自分の目で確かめようと思った次第でした。この記事は自分に向けたブーメラン記事ってやつですね。